井ゲタ竹内|味付もずく・淡塩さばなどの製造販売

企業情報

ごあいさつ

「心をこめた商品を作り、社会の潤となる」

私達は、「心をこめた商品を作り、社会の潤となる」という基本精神に基づき、皆様の喜びと健康に資する食品作りに務めて参りました。これからも、さらに向上を期するため、一層の努力を重ね、研鑽を積む所存です。
時と共に生活は変化し、求められるものは変わっていきます。そういう時の流れの中にあっても、人々に喜んで頂ける食品の要素には、変わらないものがあると思います。そういうものを大切にしながら、人々に喜んで頂ける商品作り、健康に役立つ努力を、絶えず続けて参ります。私達は、山陰・境港の地に存在することで、日本人が古来から食べていた海の幸の大切さを実感しています。海洋は、いまだ不明な事が多く、これから解明されていくものと思います。そういう雄大な海と共に生きていくために、常に謙虚に最善の努力を尽くします。

株式会社 井ゲタ竹内

代表取締役社長  竹内隆一郎





会社概要


【事業内容】:味付もずく、淡塩さばなどの食品製造
【創   業】:1947(昭和22)年
【創   立】:1950(昭和25)年11
【代 表 者】:代表取締役 竹内 隆一郎
【本   社】:〒684-0034  鳥取県境港市昭和町12-10 
                             TEL (0859)44-0725 
FAX (0859)44-0727
【営 業 所】:〒135-0033 東京都江東区深川2-1-5
                             TEL (03)3641-3812 
FAX (03)3641-3857
【主要取引先】:全国の生協・スーパーマーケット



井ゲタ竹内の歩み

1、創業者・竹内孝

1919(大正8)年、創業者・竹内孝誕生。
母・美代の筋の通った生き様に大きな影響を受け、母への心からの感謝とその教えへの尊敬の念が思想の軸となる。

中学時代、母が小魚やするめを刻んだものを醤油と砂糖で炒ったお菜は、ごはんに染みてお昼が待たれぬほどおいしかった。母が心をこめてつくってくれた思い出の味が、戦後に竹内佃煮製造所として創業した時の味の基本になった。

太平洋戦争で旧満州・佳木斯の部隊へ招集されたが、ただ一人、国内へ還され、唯一命を永らえることができた経験から、残りの人生をかけて自分が生かされた意味を問い続けたことが、井ゲタ竹内の創業と、社業に対するなみなみならない想いにつながった。





2、竹内佃煮製造所、境港市外江にて創業1947(昭和22)年)



竹内孝は1947(昭和22)年、竹内佃煮製造所を境港市外江にて創業。太平洋戦争後、故郷境港へ戻った孝は、母・美代の「食べ物をつくってみんなを幸せにしたら?」という助言を受け、葉たばこを刻む機械を入手して隠岐島でとれたスルメイカを刻み、佃煮製造を始める。


創業当初から、「井ゲタ印」を信頼の証として使用した。戦争で唯一生き残った意味を考え続け、「すべて本物でなければならない」という強い信念のもとと、「心をこめた、自然な手作りの味」を目指し、それを実現するために、「自分という資本の充実」を実践した。


商品それぞれに込めた想いを最大に表現するため、ラベルの一点一点のデザインは、画家の金畑実氏に、カタログの撮影は境港出身の写真家植田正治氏に依頼。商品の内容もデザインにも山陰の産地を想起させる「美しさを」を大切にした。





3、日本初の味付もずくの誕生



1970(昭和45)年にカタログに掲載された「もづく」

1970(昭和45)年の手詰め袋口封じラベル

1958(昭和33)年に、松江に一畑百貨店が開業し、井ゲタ竹内の売り場で隠岐島産のもずくを量り売りで手詰めした袋の口をはさんだところにラベルを貼って販売していた。1970(昭和45)年には、「もづく」がはじめてカタログに登場し、1971(昭和46)年頃には山陰の郷土食として親しまれている三杯酢による味付調味のもずくを「味付もずく」と命名して販売するようになった。美味しい味付の付加価値を明確に示すためにあえて「味付もずく」として、安心して召し上がっていただけるよう化学調味料無添加の食品として販売を開始した。これが日本で最初に発売された味付もずくとなった。

1976(昭和51)年の味付もずくラベル




1979(昭和54)年の味付もずくラベル




4、味付もずくの大ヒットと恩納村漁協との「協創」



1978(昭和53)年に発売されたスタンディングパック
の「隠岐もずく・味付」

1987(昭和62)年発売の「味付沖縄糸もずく」

1991(平成3)年頃から恩納村漁協との「協創関係」
による取引が開始







1978(昭和53)年に、「隠岐もずく・味付」をスタンディングパックで販売開始し、大ヒット商品に。取り扱いが日本生協連へと拡がり、認知も売上も大きくなった。しかし、隠岐島産のもずくの原料調達が難しくなり、1987(昭和62)年には、沖縄産の糸もずくを原料にした「味付沖縄糸もずく」を発売。店頭での陳列性のことを考慮して、スタンディングパックからお弁当箱型のトレータイプに形状も変更し、販売を開始。沖縄産の原料を使用した味付もずくも様々な紆余曲折を経て売上を伸ばしていった。沖縄産もずくも品質と安定供給の観点から恩納村漁協との「協創」関係を開始。取引が始まる以前から、井ゲタ竹内と恩納村漁協は、どちらかが一方的な利益を得るのではなく、お互いによりよいもずくを安定的につくるという想いを共にし、はやくから「協創」の関係を築き、今に至る30数年の歳月をかけて信頼関係を深めていった。




5、淡塩さばの誕生と焼魚の挑戦



1975(昭和50)年に販売されていた魚加工品「てしお」

1978(昭和53)年発売の淡塩さば。
水産庁鮮度管理流通パイロット事業認定商品に

1992(平成4)年に完成した第二工場で製造した
焼魚を、量販店に食シーンと合わせて提案





1975(昭和50)年頃は、「てしお」という魚加工品商品があった。1977(昭和52)年に日本生協連から「淡塩さば」「さばみりん」の引き合いを頂く。1978(昭和53)年には日本生協連が、「水産庁鮮度管理流通パイロット事業」を開始。「淡塩さば」もその対象商品に認定され、現在に至るロングセラー商品となった。

「淡塩さば」「さばみりん」のヒットで、加工度の高い過程で手間をかけずに食べられる魚加工品のニーズを確信し、1991(平成3)年の第二工場新設で焼魚を製造すると決断。さばの原料の調達先も安定供給できるノルウェー産に切り替えた。焼魚の販路は一般量販店をターゲットに、焼魚を食べるライフスタイルや食シーンの提案を行った。のちに、この取組みが功を奏し、味付もずくの一般量販店への販路を開拓することにつながった。

6、サンゴ礁の海を育む活動



一面白化したサンゴ。一見美しく見えるが
すべて死滅したサンゴ

生協組合員が願いをこめて描いたサンゴ養殖の基台

恩納村漁協の生産者が生協組合員が願いをこめて
描いたサンゴ養殖の基台を植え付ける




1998(平成10)年、エルニーニョ現象による天候不順が続いた沖縄ではもずくが大不作に。海水温の上昇によるサンゴの白化と死滅という事態となった。恩納村漁協は単独でサンゴの植付活動を開始したが限界があった。2009(平成21)年、協創関係にあった井ゲタ竹内が生協や恩納村を巻き込み、「サンゴ礁再生事業支援協議会」を設立。「もずく基金」にて、井ゲタ竹内の特定商品を購入することごとに売上金額の一部をサンゴの再生基金として活用し、活動を支えることとなった。2012(平成24)年には、「恩納村コープサンゴの森連絡会」が結成され、生協の組合員さんが井ゲタ竹内の商品を購入することで、サンゴの再生に協力できるようになり、組合員さんが恩納村漁協を訪れてサンゴの養殖活動を体験していただくことで、自分事としてこの問題をとらえていただけるようになった。井ゲタ竹内の社是の「社会の潤となる」を実現できたひとつの事例となった。





たくさんの関わる人の想いが立派なサンゴへと生育してきている